サラエボで平和を強く願う

昨日に続き、本日もサラエボです。

サラエボと言えば、

昨日投稿した「サラエボ事件」と、、、

最近記憶に新しい、

「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」

1992年から1995年、当時私は小学生でした。

遠い国で戦争が起きている、というくらいの認識しかありませんでしたが、

今回の旅でこの出来事がどんなに複雑で難しく、悲惨でむごいかを知ることになりました。
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モスタルに続き、サラエボで目にしたのは、

やはり沢山の銃弾の跡と破壊された建物。

そして、多くの足の不自由な方々。

(のちにこれがなぜかを知ることになります。)

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破壊されたままのビル

 

 

 

 

 

 

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銃弾の跡
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いたるところに銃弾の跡

 

 

 

 

 

 

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ちょっとした青空市
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よく見ると・・・

 

 

 

 

 

 

 

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今は建て替えられた立派な建物
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入口には、「1992年8月25-26日の夜、セルビアの犯罪者によってこの国立図書館にあった200万冊の書物が炎に消えた。忘れるな、覚えていて、警戒せよ」

 

 

 

 

 

 

 

宿の横の道、観光の中心の旧市街、

街の至るところに銃撃戦や爆撃の跡が普通に残っています。

初めは言葉を失いましたが、あまりに多くの箇所に残っていすぎて、

気がつくとそんな風景に慣れてしまうほどです。

 

さて、今日はこの紛争の象徴的な存在にもなっている

トンネルのツアーに参加することにしました。

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しかしなんとこの日、労働者の賃上げデモで、

トンネルに向かう道が封鎖されてしまったとのこと。

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待ちくたびれる人々・・・

 

 

 

 

 

 

時間を潰すために、このツアー会社の建物の上の階にある映写スペースで

紛争のドキュメンタリー映像を見ました。
・・・これが本当に・・・衝撃的でした。

普通にいつも買い物をしている道で、

急に隣を歩いてる人が撃ち殺され、老若男女の一般市民がみな逃げ惑う。
死体、怪我人を引きずり運ぶ人々。
また負傷した人を助けようとした人が打たれ、倒れる。
しかも実はこの道、私達の宿がある、目の前の道でした…

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今はこんなマーケットがありますが、

当時はこのマーケットに負傷した方々が運び込まれていたそうです

90年代に起きた出来事だから、生々しい映像が残っていて…
よく見かける、白黒の第二次世界対戦の古い映像とは違い、

かなり身近に感じるもので、これがドラマや映画ではない事実なんだと実感すると、

なんとも言葉には表せない気持ちになりました。

 

結局14:00からのツアーは15:30始まりとなりました。

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サラエボ事件の橋を渡り、バスを目指す人々
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このバスで移動~

 

 

 

 

 

 

 

参加者は、アメリカ人、フランス人、ブラジル人、韓国人、ドイツ人、イギリス人、でした。

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バスは中心から郊外にまっすぐ続く通りを走ります

 

 

 

 

 

 

 

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通り沿いには新しく巨大なショッピングモール

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一方で、、、逆側には、、、

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紛争中、唯一各国メディアが宿泊したホテル、ホリデインの跡
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破壊されたビル

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この目抜通り、紛争中はスナイパー通りと呼ばれており、

サラエボを包囲していたセルビア勢力が、この道で動くものがあったら何でも射撃していたそうです。

しかもその方法が悲惨。
急所ではなく足を狙って撃ち、

その人を助けようと他の人達が道に出てきたら、その人達もまとめて撃つ。
確かに「効率的」だけど、こんな酷い方法…
だから、街には足の不自由な方々が沢山いたのです。
また、国連軍の車両は一般市民の盾となるためにこの道をゆっくり走行していたそうです。

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少し走ると、空港近くの田舎道
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標識が出てきました

 

 

 

 

 

 

 

さて、30分くらいすると到着しました。

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普通の民家の下にトンネルが掘られ、セルビア陣営が包囲していた勢力外に繋がっていたとのこと。

(元々800メートル、現在公開されてるのは25メートルのみ)

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家の住所

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地面の「赤いバラ」は砲弾による死者が出た場所であることを示すもの、

街中いたるところにありました。

 

このトンネル、初めは軍が利用していたけど、

最終的には一般市民が食料や暖をとるための木材を町に運んだり、

町の人々が脱出するのに使用したとのこと。

ツアーガイドのお姉さん(といっても恐らく私より年下)が地図や映像を使い説明してくれます。

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一生懸命で分かりやすい説明
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赤い部分がセルビア勢力

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とにかくセルビア勢力に包囲されているので、

水、食料、薬、木材の不足が深刻な事態になっていたとのこと。
更にそれを手に入れるのに「動く」ことが命懸け。

(先ほどスナイパー通りで説明した通り。)
国連は「人道的支援」の事実を海外にアピールしたけど、

内情は消費期限が分からない(切れてる)保存食と、

絶対にここでは必要のないマラリアの「薬」だったとのことです。。。

 

その後、ここではトンネルがどのように作られ、使われていたか映像を見ました。

トンネルから出てきた兵隊さんにお水を渡していたおばあちゃんは今もこの家に住んでるとのこと。
さらに映っている男性はツアーガイドさんの高校の先生だったそうです。
やはり、これは記憶に新しい出来事なんだ…

ボシュニャク人の若い彼女の説明は客観的で分かりやすいことにプラスして、

ボシュニャク人としての苦しみ、さらにセルビア人に対する憎しみの感情がこもっているように私は感じました。。。

 

さて本題のトンネルは、

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屋根がついてるところが入り口

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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階段を下がると・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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奥に続くトンネル、少ししゃがんで前に進みます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奥に行くともっと天井が低くなり、すれ違うのも大変だったといいます。

また映像にもありましたが、雨が降ると水が貯まってしまったそうです。

想像するだけでこの道を800メートルも歩くのは大変・・・

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地上へ~出口

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このような小さなトロッコで物資を運んだそうです

 

 

 

 

 

 

 

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これはトンネルを掘るのに使われたものでしょうか、外に展示されていました

 

 

 

 

 

 

 

今回は「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」の一部のみしか触れていませんが、

この他にも、大量虐殺やジェノサイド、民族浄化が行われたとのことです。

 

つい20年程前の出来事、ともすると、

この地域に入って優しく接してくれているおじさんおばさんは紛争当事者なんだと思うと、

何とも複雑な心境になります。

 

この地に来て、やっぱり戦争はやってはいけないと改めて思いました。

本当に悲惨で言葉になりません。

と同時に、自分が日本人で、いかに恵まれて平和に生きているか、再確認。感謝。
同じ過ちは起こしてはならない。
その為に指導者は未来を見据えて、そういう「きっかけ」を作ってはならない。
争いは人を醜いものに変えてしまうから。

最近の日本の報道を見ていてとても心配になります・・・

戦争と平和を知る日本人だからこそできることがもっとあると思います。

日本人は政治レベルでも民間レベルでももっと上手に

この貴重な経験をアピールすることができるはずだし、していくべきだと実感しました。

それから、

日本でも戦争を知る世代がどんどん高齢化してきているために、

伝えることが大切、と良く聞き、全くその通りだと思いますが、

伝えられたものを実際に「自分の目で見て」、さらに「感じる」、

ということの大切さを今回の旅で痛感しました。

 

長くなりましたが、心から、サラエボで平和を強く思ったのでした!!

 

ということで今日の1枚

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スナイパー通りを走る古いトラム

 

 

 

 

 

 

 

安心してこの道を走れる日々が永遠に続きますように!

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↑今日も長々とお読みいただき、誠にありがとうございました。

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